マラカイトグリーン

ウナギの偽装問題でここ最近話題になっておりますが、
決してこの問題はウナギだけではありません。
「え~なんのこと?」と思われるかも知れませんね。
実はお線香とすごく関係がある話なんですよ。

お線香は昔から緑色?と思われている方が非常に多く、
確かにコマーシャルで有名なお線香「○○香」もその内の代表的な緑色です。

緑色のお線香くださいと言われることはないですが、
青いお線香くださいと指名されるお客様は未だに多いのも事実です。
この色のお線香が高級品と勘違いされている人は沢山おられます。
お線香の色は全く関係ないのですがこの点は困った問題です。

話は少し脱線しますが、
緑色の事を日本では青いと昔から例えますよね。
若葉が緑みどりしていると言うような表現はしません。
青々と呼びますね。
だから子供の時に困った記憶があります。
緑なのに?何故青?皆さんはそんな事ってなかったでしょうか?

本題に戻って
緑色のお線香は染料で色を染めています。
通常、お線香の原料の50%以上は椨粉(たぶこ)と呼ばれる材料に、
白檀や沈香などの香料を加え製品に致します。
そうすると茶色系の色に仕上がりますが、
わざわざこれにマラカイトグリーンなどの緑色染料を加え仕上げます。
何故?でしょう。
ズバリ結論は、製品がむらなく仕上がり、何よりも他の染料より安いからです。
もし緑色でなく青色が安く手に入ればその色になっていたのではないでしょうか?
少なくとも私はそのように思っております。

以前、今のようにマラカイトグリーンが悪役でなかったときは、
日経新聞の商品指標マンスリーなどでも掲載されていた程身近なものでした。
ところが日本では、薬事法や食品衛生法などが改正され、
確か2005年07月より発ガン性の疑いがあるので、
口にする食品に使うことは禁止になりました。
米国では1970代、欧州では2000年より日本に先駆けて禁止です。
マラカイトグリーンそのものが製造禁止ではありません。
今でもペットショップでは金魚などの観賞用で使う抗菌剤として売られております。
あくまでも人が口にする養殖用として使うのは禁止なだけです。

蚊取り線香も見慣れているものは緑色では?
実はこれもマラカイトグリーンを使い染色しています。

過去にテレビで放映された「TBSがっちりマンデー」で、
明治35年金鳥蚊取り線香は「夏に使うので涼しい緑色に着色」と言われておりますが、
私なら涼しさを感じさせるなら水色系にします。
なので工業的な思惑があったように思えてなりません。
みなさんはどのように感じられましたでしょうか・・・?

結論
お線香は食べる食品ではありませんので、
マラカイトグリーンは使っても安全である?。
口から体内に入って来なくても、煙で肺から体内に入ってきます。
でも、マラカイトグリーンで肺ガンになったと言う事は耳にしていません。

緑色のお線香がすべてではありません。
あまりにもこの神話に縛られてはいませんか?

青いお線香=マラカイトグリーンの染料
そう言いきっても過言ではありません。
いつか解りませんが別の染料にとって変わる時が来るのを待ちましょう。

 

※ 今回は緑色のお線香の話です。
  黒っぽい色のお線香は煙の少ない商品に多です。
  これらは主原料に炭(カーボン)を使用しているためです。

9人の兄弟姉妹

昔は貧乏人の子だくさんなんて当たり前だったでしょうが、
母親の兄弟姉妹は、男4人・女5人いており、
その中で一番年長の長女が私の母親です。
さすがに一番下の妹とは約20歳の差があり、
まさしく親子ほどの年齢差に驚きです。

すでに、長男であるすぐ下の弟さんが40代で亡くなっておりますが、
今回、2番目の弟さんが他界したと数日前に連絡が入り、
昨日、お通夜のため、滋賀県草津市まで会葬に出掛けてきました。

母親にしてみれば自分よりも年下の弟が先に他界し、
長生きすればするほど、
つらい別れも沢山しなければならないし、
次は自分かも?と言うどこか思いがあるような・・・。

また話は不謹慎というか何と言いましょうか
今や昔と違い地方都市でも葬儀は自宅で行わず、
葬儀会館で行うのが主流なのでしょうね。
それはもうホテルと見間違えるほどの立派な会館で、
お参りに伺っているにも関わらず、
この施設を維持管理する費用はどのくらい?
高く付くよなぁ見たいな思いをつい考えてみたりで、
どうしても仕事がら普通にお参りしていない自分がいます。

南無阿弥陀仏 合掌 

ジョーカークラブ

コスター閉店間際に使っていたコスタージョーカー会員カードボトルキープのカード

天王寺に「Joker club(ジョーカークラブ)」と言うお店があった事をご存じでしょうか?
場所はアポロビルがある道向い、ビルの地下にあるバー。

お店の中は、カウンター席とボックス席あわせて30名ほどの大きさで、
奥にはアップライトのピアノと地下のお店なのに一番奥には大きな窓があり、
ガラス越しに夜の借景が最高でした。

マスターの名前は、「岡地義紀さん」S33年戌年生まれ。
パッと見かけは、アリスのべーやん堀内孝雄さんに似ていました。

ジャズが大好きなマスターは、気がむけばサックスを吹いていましたね。
当時はレフトアローンしか知らない私、
マスターはスタンゲッツがお気に入りでCDを掛けていました。

お店の名前の由来は、本名の岡地を逆さまに「じかお」とせず、
漢字を逆さまに地岡(じおか)→ジョーカーにされたらしい。

私の20代はこの店がなかったら始まらないと言っても過言でない、
特別大事なお店でバーのJoker club(ジョーカークラブ)です。

ある日突然、木こりになるとお店を閉店し京都の美山町へ。
その後、結局は大阪に戻ってくる。
それがなければ今もあったに違いないジョーカー。
いつか天王寺で再オープンされると信じ待っていたのですが・・・

私が初めてお店に伺ったのは、21歳の正月。
近くに住む高校時代の先輩に連れられて・・・。
それまでバーには縁がなく居酒屋や炉端がほとんど。
もちろん飲むアルコールと言えばビールか日本酒、
洋酒ではダルマ(サントリーオールド)しか知りませんでした。

その頃どこかに行きつけのバーが欲しいと思っていましたので、
ここだとそれから通いはじめ、
いつしか気がつけば毎晩のように天王寺のジョーカーへ。
毎晩通えば自然と常連客同士で意気投合。
今でもこの当時知り合った素敵な仲間が周りにいます。
また、その内の1人が実は私の奥さんでもあるのですがね。

洋酒の味を知らなかった当時、
初めてのボトルキープが何故かビフィータージン。
その後、バーボンウィスキーのファローズを何十本と空けて、
ようやくブランデーやウィスキーの違いも解りました。

何故今日はこのような話を書いているのかと言うと、
実はマスターの岡地さんがガンで3年前に亡くなっていたと、
昨夜、知人から連絡があったからです。

しばらくお会いする事がなく、
便りのないのが無事の知らせと思っていただけにショックです。

せめて何か出来ることはないかと考え、
いつまでもネット検索で岡地義紀・ジョーカークラブの名前が残ればと、
それが今の私に出来る供養の形です。

あまりに早すぎる40代の死に手向ける言葉も見つかりませんが、
今はただ一言

ありがとうジョーカークラブ。

ありがとう岡地さん。